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要点
2014年6月、イスラム国の戦闘員たちはイラクとシリアの国境の土塁をブルドーザーで突き崩し、それをサイクス・ピコの終わりと呼んだ。歴史は間違っていたが、要点は正しかった。1916年の協定は今日の国境を引いたわけではない。引いたのはのちの条約である。だが、のちの条約はどれもその論理を受け継いだ。大国は自分たちの都合に合わせてこの地域を切り分ける、という論理だ。1920年のセーヴル条約で、クルド人は国家への道を約束された。その3年後のローザンヌ条約には「クルド」という言葉が一度も出てこず、クルド人の土地は結局四つの国に分割された。
目次
2014年6月、イスラム国の戦闘員たちはイラクとシリアの国境を画す土塁をブルドーザーで突き崩し、その写真を「サイクス・ピコ国境の粉砕」と題して拡散させた。重機がよろめくように前進し、土砂が雲のように崩れ落ちていく。6月29日には、同組織の英語メディア部門がこれに続いて『サイクス・ピコの終焉』と題する動画を公開した。動画では、チリ生まれの戦闘員が放棄されたイラクの国境検問所を巡りながら、訛りのある英語で、自分たちが何をしているのか、なぜそうするのかを語る。彼らは1916年に二人のヨーロッパ人外交官が引いた線を消し去ろうとしている。そしてそれを消すことが、動画の論理に従えば、解放の行為なのだという。映像の作りは新兵募集の広告のそれであり、論旨は歴史の講義のそれであった。
2014年の攻勢の絶頂にあったジハード主義の武装組織が、自らの領土拡張を、宗教の言葉だけでなく外交史の言葉でも語ることを選んだのである。彼らは領土を奪いながら、自分たちが覆そうとしている特定の協定、すなわち98年前の英仏間の覚書を名指しし、その協定を自らの事業の象徴的な敵として呼び出した。イスラム国が他の点で何であったにせよ、サイクス・ピコがいまなお意味を持つという点では、彼らは正しかった。ほぼ1世紀を経てもなお、この協定は、自称カリフ国家にとって名指しされた抑圧者の役を務めるだけの残留電荷を帯びていたのである。
地図にはならなかった協定
サイクスとピコは1916年1月に合意に達した。ロシアの同意を得たうえで、合意は1916年5月16日に完了したフランス政府と英国政府の間の書簡交換によって正式なものとなった。正式名称は小アジア協定である。交渉にあたったのは、保守党の下院議員でオスマン帝国領を旅し慣れたサー・マーク・サイクスと、フランスの外交官で元ベイルート総領事のフランソワ・ジョルジュ=ピコであった。
彼らが生み出したのは、国家の地図ではなく勢力圏の分割であった。フランスはシリア沿岸部とレバノン、そしてアナトリア南東部の一角を直接支配し、東はモスルにまで及ぶシリア内陸部のアラブ国家ないし連邦に対して間接的な影響力を持つ。英国はバグダッドからバスラに至るメソポタミア下流域と、ハイファおよびアッコの港を直接支配し、その間に広がる砂漠地帯、おおむね今日のヨルダンとイラク西部に対して間接的な影響力を持つ。パレスチナは何らかの形の国際管理下に置かれる。両国はさらに、アラビア半島そのものでは領土を獲得しないことも約束した。その線が今日の政治地図と一致するのは、ところどころにすぎない。フランスに割り当てられたレバント沿岸部は確かにシリアとレバノンになり、メソポタミア下流域は確かに英国統治下のイラクの中核となった。しかし、今日意味を持つ国境の大半は後になって引かれたものであり、協定がフランスに与えたモスルは、最終的にイラクに組み込まれた。
サイクス・ピコについて世間の常識として通用していることの大半は、この点を取り違えている。イラク、シリア、ヨルダン、レバノン、イスラエルの現在の国境を引いたのは、サイクスとピコではない。それらはその後の交渉から生まれた。国際連盟の委任統治領を割り当てた1920年のサンレモ会議。戦後のトルコ問題の大半を決着させながら、トルコとイラクの国境は国際連盟に委ねた1923年のローザンヌ条約。そして国境線を詳細に引いた一連の英仏国境委員会である。通俗的なサイクス・ピコ物語を批判する研究者たち、たとえばデイヴィッド・シッダールタ・パテル、スティーヴン・クック、アムル・T・レヘタがこの点を指摘するのは正しい。中東を切り分けた地図は、厳密に言えば、あの二人の男が引いた地図ではない。
マーク・サイクス本人は、自分が誰に対して何をしているのかを知らなかった男として描かれることが多い。だが彼はオスマン帝国領を広く旅し、1900年には『トルコ五州紀行』を、1915年には『カリフ最後の遺産』を出版しており、この地域についての政治的な知見を確かに備えていた。たとえそれが、彼の階級と時代の前提を通して濾過されたものであったとしても。ジョルジュ=ピコはベイルートで総領事を務めた経験があった。
どちらの男も、やがて生まれる国家の内側で暮らすことになる人々に対して責任を負ってはいなかった。彼らが設計していたのは、自分が統治しなければならない国でも、自分の子どもたちが住むことになる国でもなく、どちらの男の外交官としての経歴も、それらの国を機能させることにかかってはいなかった。彼らは世界大戦のさなかに、崩れゆく帝国を二つの植民地大国の間で分け合っていたのである。天秤にかけられていたのはフランスと英国の利害だった。その線の内側の住民が、生まれた国家を正統なものとして受け止めるかどうか、したがってその国家が同意によって統治されうるかどうかは、計算の変数に含まれていなかった。
1917年末にボリシェヴィキがこの秘密協定の本文を公表したとき、アラブ世界の反応は特別な種類の憤激であった。ある条件で取引をしていたつもりが、相手方は背後でまったく別の条件の、まったく別の取引をしていたと知った人々の憤激である。その憤激は、いまも完全には消えていない。この協定が象徴として持つ力は、一つにはこの裏切りに由来し、もう一つにはもっと構造的なものに由来する。協定が打ち立てた原則は、協定が引いた個々の線よりも長く生き延びたのである。これらの国境を画定したその後のどの条約も、ほぼ同じ論理を受け継いだ。この地域は大国の都合に合わせて切り分けられる、という論理である。協議が約束された場面でも、それは無視されるか、操作された。国際連盟規約は、旧オスマン帝国の諸共同体の希望を、受任国の選定にあたって「主要な考慮事項」としなければならないと定めていた。にもかかわらず、シリア人の大半がフランスの委任統治を拒んでいるという1919年のキング=クレイン委員会の調査結果は棚上げにされ、ファイサルのイラク王位は、英国がすでに結果を決めていた住民投票に付されたのである。
条約の連なり
通俗的な説明は、サイクス・ピコを中東の決定的な分割として扱う。実際の経緯はもっと込み入っている。サイクス・ピコ協定(1916年)は英仏による分割という原則を打ち立て、勢力圏の輪郭を描いた。バルフォア宣言(1917年)はパレスチナ問題を持ち込んだ。セーヴル条約(1920年)はクルド人の自治規定を含むオスマン帝国後の秩序を押しつけようとしたが、トルコによって批准されることはなかった。サンレモ会議(1920年)は国際連盟の委任統治領を正式に割り当てた。フランスはシリアとレバノンを、英国はイラクとパレスチナを得た。
ムスタファ・ケマル率いるトルコ民族主義勢力の勝利の後に交渉されたローザンヌ条約(1923年)は、セーヴル条約に完全に取って代わり、イラクとの国境を除くトルコのすべての国境を確定させたが、クルド人の自治についての規定は一切含まなかった。イラクとの国境は1925年12月に国際連盟が「ブリュッセル線」に沿って裁定し、1926年6月の英・トルコ・イラク条約がその裁定を確認した。その後、英仏の国境委員会が具体的な線を引いた。こうして生まれた国境は、サイクス・ピコの当初の区割りから重要な点で外れている。しかし、その後のどの文書も、外部による分割という同じ大枠の中で機能した。この連続性は大半の歴史家が認めるところである。もっとも、そのうちどれほどがサイクス・ピコそのものに帰せられ、どれほどが戦時の占領、委任統治制度、そして1918〜26年の諸取引に帰せられるべきかについては、議論が続いている。
国家を約束された民族
このメカニズムが最もくっきりと作動しているのは、クルド人の事例である。その数は、現在の推計の幅でいえば2500万〜4500万人にのぼる(彼らを数える国勢調査は存在しない)。おそらく世界最大の国家を持たない民族集団であり、トルコ、イラク、シリア、イランにまたがって暮らしている。
彼らは一つの言語(あるいは互いに近縁な方言群)、一つの文化、そしてクルディスタンという歴史的な名を持つ一つの領域を共有している。彼らには民族的アイデンティティがあるが、国家はない。その理由は、1920年から1923年の間に下された一連の具体的な外交上の決定にまで、異例なほど正確な文書の裏づけをもってたどることができる。
1920年8月に調印されたセーヴル条約は、クルド人に一つの約束を与えた。同条約の第62条から第64条は、旧オスマン帝国のうちクルド人が多数を占める地域での自治を定めていた。さらに第64条は、条約の発効から1年以内に、それらの地域の住民の多数が独立を望んでいることをクルド人が国際連盟理事会に示し、理事会が彼らに独立の能力があると判断してそれを勧告した場合には、トルコはその地域に対する権利を放棄する、と明記していた。「クルディスタン」は、主要な多国間講和条約の一節の表題として登場したのである。そして、この地域を決着させたその後のどの条約も、それを繰り返すことはなかった。連合国は、署名された文書において、具体的な条文と期限を添えてこれを約束していた。だが条約が発効しなかったため、その期限が動き出すことはついになかった。
3年後、ローザンヌ条約が調印された。そこには「クルド」という語が一度も現れない。セーヴル条約の第62条から第64条は、自治の規定も独立への道筋もろとも、何の代わりもなく削除された。この逆転を動かしたのは力であった。ムスタファ・ケマルの民族主義運動は連合国の後押しを受けたギリシャ軍を打ち破っており、アナトリアの分割を一切受け入れようとしなかった。英国は石油を産するモスル州を自らのイラク委任統治領の内側に留めておくつもりであり、その地を要求しかねない独立クルディスタンにもはや用はなかった。そしてフランスは、1921年10月にすでにアンカラと独自の単独講和を結んでいた。クルド人には、それに匹敵する交渉力がなかった。彼らはオスマン帝国分割の副産物として国家を約束されたのであり、計算が変わると、その約束は捨てられた。
その結果、クルド人の居住地域は四つの別々の国家に分配された。トルコ、フランスのシリア委任統治領、英国のイラク委任統治領、そしてイランである。そのいずれもが、その後、程度の差はあれ残虐な形で、クルド人の政治的アイデンティティに対する抑圧、同化、あるいは否認の政策をとっていった。その後に続いたのは並行する一連の紛争であり、そのすべてが同じ構造的条件から生まれている。一つの民族を構成するに足るほど大きく、まとまりのある住民が、まさにその民族を権力から排除することを軸に政治体制を築いた複数の国家に分断されている、という条件である。
トルコでは、PKK(1978年に結成され、米国と欧州連合の双方からテロ組織に指定されているクルディスタン労働者党)が1984年から武装闘争を展開し、40年間で少なくとも4万人が命を落とした。2025年、オジャランの呼びかけに応じてPKKは解散を表明し、武器の破棄を始めた。2026年8月にはトルコ議会が構成員に条件付きの恩赦を与える枠組み法を可決した。その恩赦措置が適用されるのは、組織が解散し武装解除したことをトルコの国家安全保障会議が確認した後に限られ、その確認は2026年10月の時点でまだなされていない。PKKの創設時のイデオロギーはマルクス主義的な分離独立主義であった。指導者が後に国家建設そのものから離れていったことについては、後述する。
イラクでは、否認は1988年に最も極端な形をとった。同年2月から9月にかけて実行されたサダム・フセインのアンファル作戦は、通常戦力、化学兵器、大規模な強制移住を用いて、イラクのクルド人住民に対して行われた組織的な軍事作戦であった。この作戦で最も悪名高い単一の事件は、1988年3月のハラブジャへの化学攻撃であり、数時間のうちに推定3200〜5000人が死亡した。これは、一般市民に向けられた化学兵器攻撃として史上最悪のものと広くみなされている。アンファル作戦全体の死者数については議論がある。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、最も控えめな推計で5万人、場合によってはその2倍としている。議論の余地がないのは、それが設計においても実行においてもジェノサイドであったということだ。自らの国境が生み出した人口構成上の問題を、大量殺戮によって解決しようとした国家の所業である。
2017年9月、イラク北部のクルディスタン地域政府は独立を問う住民投票を実施し、92%を超える票が独立に賛成した。イラク中央政府はこの結果を無効とした。いずれも自国内にクルド人少数派を抱えるイランとトルコは、バグダッドを支持した。ISISとの戦いでクルド人勢力との軍事同盟を何年もかけて築いてきた米国は、住民投票の結果を一切支持しなかった。数週間のうちに、クルディスタン地域政府はキルクークとその油田、そして2003年以降に掌握していた約2万3000平方キロメートルの係争地のほぼすべてを失った。
クルド人の事例は、このメカニズムを目に見えるものにする。クルド人は、国家を形成するだけの結束や意志を欠いていたわけではない。彼らの国家はある条約で約束され、次の条約で取り消された。彼らの土地は、結果に何の利害も持たない大国によって四つの国境にまたがって分割された。そして彼らが救済を求めるたびに、彼らを抱える国家は弾圧で応じ、1988年には毒ガスで、2017年には住民投票の無効化で応じた。
オジャランの連邦主義
PKKの創設指導者で獄中にあるアブドゥッラー・オジャランは、イムラル島で終身刑に服しながら「民主的連邦主義」の理論を練り上げた。米国のアナキスト、マレー・ブクチンの「リバタリアン地域自治主義」の概念に依拠して、オジャランは国民国家そのものが問題なのだと論じた。クルド人の解放に必要なのはクルド人の国家ではなく、既存の国境をまたいで機能する、民主的で多民族的でフェミニズム的な統治モデルだ、というのである。この理論は、一面では恒久的な閉塞への応答でもある。国家に基づく解決が十分に長く閉ざされ続けると、知的な営みは、国家なき解放を構想する方向へと向きを変えるのだ。
シリア内戦のさなかに樹立された、シリア北部のクルド人主導の自治行政体ロジャバは、トルコの軍事的圧力と米国の戦略的計算の間で締めつけられながら、このモデルの要素を実践しようとした。2026年1月の政府軍の攻勢と停戦を経て、その部隊と機関は新しいシリア国家に組み込まれた。2026年8月までに指導者たちはその統合の完了を宣言し、クルド人の自治は、残っているとしても自治体レベルで生き延びているにすぎない。
失敗するように組み立てられた国家
クルディスタンが示すのは、植民地的な地図作りがまとまりのある民族集団を横断して切り裂き、その人口と領域からすれば当然得られたはずの国家を拒んだときに何が起きるか、である。イラクが示すのは、同じ操作のもう一つの側面である。一度も国家を共有したことのない集団が一つの国家に溶接され、その国家は以来ずっと、まとまりを保つのに苦しんできた。
近代イラクは、オスマン帝国の三つの州(ヴィラーエト)から作られた。北部のモスル州はクルド人が多数派で、アラブ人、トルクメン人、キリスト教徒、ヤズィーディーの大きな共同体を抱えていた。中部のバグダッド州にはスンニ派とシーア派のアラブ人が混在し、シーア派の聖地カルバラーとナジャフがあった。南部のバスラ州は主にシーア派アラブ人の地であった。バグダッドとバスラは長らく「アラブのイラク」という一つの地域として扱われ、バグダッドがしばしば隣接地域に権威を及ぼしていた。だがモスルは南と同じくらい北と西にも目を向けており、三つの州が独自の国家を形成したことは一度もなかった。そのことがイラクをどれほど人工的な国にしたのかについては、歴史家の間でいまも議論がある。議論の余地がないのは、英国がイラクをどのように組み立てたかである。英国は戦略的に好都合だという理由で三つの州を一つの行政単位に融合させた。モスルはその石油のため、バスラはペルシャ湾への出口のため、バグダッドは行政の中心として。訴えかけるべきイラクの国民意識はほとんど存在しなかった。イラクはそれまで独立国家として存在したことが一度もなかったからである。
英国が作り出した人口構成の算術は、最初の日から不安定であった。イラクのムスリム人口はおおよそ5分の3がシーア派、3分の1がスンニ派で、クルド人は全人口の15〜20%を占める。この配置の上に、英国はファイサル1世を戴くスンニ派アラブ人の君主制を据えた。ファイサルはヒジャーズのハーシム家の出であり、それまでイラクとは何のつながりもなく、その属する共同体であるスンニ派アラブ人は国の人口のおそらく5分の1にすぎなかった。この選択は意図的なものだった。英国にとっては、南部を支配するシーア派の聖職者層よりも、スンニ派アラブ人の行政官僚層とファイサル本人のほうが手を組みやすかった。政治的周縁化が国家の創設構造に組み込まれたシーア派多数派は、計算の中でさほど重みを持たなかった。
この宗派の算術は、その後に起きたことにとって付随的なものではなかった。ハーシム家の王政から、1958年の共和派クーデター、1968年のバアス党による政権奪取を経て、サダム・フセインの大統領時代に至るまで、イラクのすべての政府はスンニ派が支配し、いずれも国家権力の梃子から締め出されたシーア派多数派とクルド人少数派を統治していた。この体制をつなぎ止めるには力が必要であり、力が統治の基本的な道具となった。イラクの構成は同意に基づく統治をほぼ不可能にしていた。それゆえ国家は、強制を常態とする方向へと収斂していったのである。
2003年の米国の侵攻がその強制の構造を取り除いたとき、現れたのは、何十年も押し込められていた諸勢力のただちの自己主張であった。2006年から2008年の宗派間内戦では、3年間で約6万6000人の民間人の死亡が記録されたが、この内戦は侵攻だけによって引き起こされたのではない。侵攻と、軍の解体のような占領期の決定は、1920年以来存在していた断層を露わにしたのである。シーア派の民兵、スンニ派の武装反乱、クルド人の自治運動は、いずれも、創設の設計によって自らを権力から排除した国家に対する共同体の反応であった。その排除がとった形であるバアス主義は消え去った。だが、排除を国家をつなぎ止めるための代償にしていた体制は、消えていなかった。
2014年6月のイスラム国によるモスル制圧と、イラク西部のスンニ派アラブ人の中心地帯全域に対する急速な支配の確立も、同じ論理に従っていた。ISISは軍事指揮官の多くを、解体されたイラク軍の将校から得ていた。スンニ派アラブ人が支配していたその将校団は、2003年5月のたった一つの行政命令によって、国家権力の座から失業へと追いやられていたのである。80年にわたって国家権力を握ってきたスンニ派住民は、2003年以後、シーア派が支配するバグダッドに統治される身となった。その新しい民主主義を、多くの者は宗派的な報復として経験した。その政治的空間に、ISISは一つの提案を携えて入り込んだ。スンニ派が歴史的に治めてきた領域に、スンニ派のための、スンニ派の国家を、という提案である。その提案がなぜ人を惹きつけたのかは、イラク自身の歴史が説明してくれる。
モスル問題
モスル州が、トルコでも、独立したクルド人国家でも、フランスの勢力圏でもなく、英国の委任統治領に組み込まれたのは、地理の偶然ではなかった。モスルは争奪の的だった。トルコはその領有を主張し、クルド人はそこに住み、サイクス・ピコはそれをフランスの勢力圏に置いていた。英国はこの争いを自らに有利なように決着させたが、それは主として、英国の石油利権がモスル地域の埋蔵量を戦略的に重要なものと見定めていたからである。クレマンソーは大戦の終わりに、その石油の取り分と引き換えにモスルを譲った。取り分は1920年に25%と定められ、同年のサンレモ会議はモスルが英国の委任統治領に含まれることを確認し、1925年12月には国際連盟がモスルをイラクに帰属させた。トルコは1926年6月の条約でその決定を受け入れた。
1929年にイラク石油会社と改称されたトルコ石油会社は、その頃には英国、英蘭、フランス、米国のグループがそれぞれ4分の1弱ずつを均等に保有し、仲介者カルースト・グルベンキアンが5%を持っていた。この比率は、現地の意向ではなく地政学的な決着を反映したものだった。モスルをイラクの内側に囲い込んだ国境は、ほかのさまざまな意味とともに、油田の境界線でもあった。
レバノン、あるいは宗派主義を国家に組み込むと何が起きるか
クルディスタンは分割の事例であり、イラクは強制的な組み立ての事例である。レバノンでは、メカニズムは第三の仕方で作動した。宗派間の分断を、国家そのものの構造として制度化したのである。その結果は、受け継いだ分断を再生産するよう恒久的に設計された政治体制であり、その構造全体が分断の維持に依存しているがゆえに、分断を乗り越えることができない。
大レバノンは1920年9月1日にフランスによって宣言された。主にマロン派キリスト教徒が住む旧オスマン帝国のレバノン山岳州を拡大し、ベイルート、サイダ、スール、トリポリ、ベカー高原を取り込んだのである。これらの地域の住民は主にムスリムであり、多くの場合シリアとの統合を望んでいた。フランスはマロン派の要請を受け、ムスリム諸共同体の明確な反対を押し切って行動した。この拡大によって、建国の瞬間から人口構成上の均衡が争われる国家が生まれた。
そこから生まれた統治の取り決めが、1943年の国民協約である。独立前にキリスト教徒とムスリムの政治指導者の間で交わされたこの不文の合意は、国家の要職を宗派ごとに割り当てた。大統領はマロン派キリスト教徒、首相はスンニ派ムスリム、国会議長はシーア派ムスリム。国会の議席はキリスト教徒とムスリムで6対5の比率で分けられる。この算術は、ただ一つの資料から導かれていた。フランス委任統治下で実施された1932年の国勢調査である。その国勢調査は、キリスト教徒をわずかな多数派として示していた。住民のおよそ半分、登録簿に載っていた主にキリスト教徒の移民を数に入れれば5分の3近くである。それはいまもレバノンが実施した最後の公式国勢調査であり、一度も更新されたことがない。2026年のいま、レバノンの宗派制度は94年前の人口のスナップショットの上に成り立っているのである。
それ以来国勢調査が行われていない理由は政治的な計算であり、レバノンのすべての政治主体が同時にその計算を行っている。主要な宗教共同体はどれも、新たな国勢調査がムスリムの多数派、おそらくは相当な多数派を示し、それが政治権力の再配分を正当化することになると、かなりの確信をもって知っている。キリスト教系の勢力はどこもその再配分を望まず、ムスリム系の勢力はどこもそこに至るまでの不安定を望まない。それゆえ、誰も国勢調査を命じない。1932年の数字の上に築かれた政治体制は、1932年の数字をそのまま据え置くのに必要なインセンティブを生み出してきたのである。
1975年から1990年まで続き、推定12万〜15万人の命を奪ったレバノン内戦は、宗派制度の人口構成上のずれだけによって引き起こされたのではない。レバノンにおけるパレスチナの武装勢力の存在、シリアとイスラエルの介入、イランの影響下でのシーア派の政治的アイデンティティの地域的な再編が、いずれも寄与した。しかし宗派制度は、人口構成の変化に適応することも、1932年の国勢調査に基づいて権力を割り当てられた共同体に正統な政治的表現を与えることもできなかった。その構造的な無能力こそが、戦争をもたらした複数の圧力が露わにし、つけ込んだ条件であった。人口構成の変化に応じて権力を再配分する機能的な仕組みを持つ政治体制であれば、内戦に対して無敵ではなかったにせよ、圧力を逃がす弁は持っていたはずである。レバノンには、その弁がなかった。
内戦を終わらせた1989年のターイフ合意は、キリスト教徒とムスリムの議席を同数にすることで宗派間の比率を修正したが、制度そのものは廃止しなかった。上位三つの要職の宗派別割り当ては、そっくりそのまま生き残った。これらの慣行は2026年のいまも守られている。ジョゼフ・アウン大統領はマロン派、ナワフ・サラム首相はスンニ派、ナビーフ・ベリ国会議長はシーア派である。いずれも憲法には書かれていない。憲法はターイフ合意以降、政治的宗派主義の廃止を「国家の基本目標」と宣言している。それでも、マロン派の優位を後押ししたフランス委任統治の最後の数年に結ばれた1943年の不文の取引は、それを退かせようとするあらゆる試みよりも長く生き延びてきた。人口構成が見る影もなく変わってしまった国においてである。
2020年8月のベイルート港の爆発では、少なくとも218人が死亡し、30万人以上が住まいを失った。原因は危険な状態で6年間保管されていた硝酸アンモニウムであり、いまだにどの政治主体もその責任を問われていない失敗である。硝酸アンモニウムの存在は、港湾当局者、税関当局、政府の閣僚によって指摘されていた。何も手が打たれなかったのは、宗派制度が責任をあまりにも多くの競合する制度上の縄張りに分散させていたために、名目上は全員の管轄下にあり、それゆえ実際には誰の管轄下にもない施設に対して、安全上の決定を押し通すだけの権限を持つ単独の主体が存在しなかったからである。6年が過ぎ、捜査判事は70人を超える当局者や職員に嫌疑をかけたが、何年にもわたる政治的妨害の末、2026年10月の時点でも起訴状は一通も出されていなかった。爆発は、その大部分において、宗派制度のゆえに起きたのである。
ヒズボラとシーア派の空白
レバノンの宗派制度は、国家の上位三つの要職の三番目である国会議長職をシーア派共同体に割り当て、ナビーフ・ベリは1992年以来、この職を権力の中枢に変えてきた。だがシーア派は歴史的に、レバノンの主要な共同体の中で最も貧しく、政治的に最も組織化されていなかった。イラン革命の事業がレバノンのパートナーを求めたとき、それが見いだしたのは、理論上は自らを代表するよう設計されたまさにその政治体制によって、組織的に資源を与えられずにきた共同体であった。ヒズボラは1980年代に、イスラエルによるレバノン南部占領に対する抵抗運動としてだけでなく、学校、病院、福祉ネットワークを運営する社会サービスの提供者として現れた。レバノン国家が、シーア派の代表に政治的地位を割り当てながら、その代表を意味あるものにしえたはずの資源を割り当てなかったことで生じた空白を埋めたのである。
ヒズボラは、イランの戦略的利益の産物であるのと同じくらい、宗派制度の構造的失敗の産物である。2026年3月、その二重のアイデンティティがレバノンを再び戦争に引きずり込んだ。米国とイスラエルの攻撃でイランの最高指導者が殺害された後、ヒズボラはイスラエルを攻撃し、6月下旬までにレバノンでは4000人を超える死者と120万人を超える避難民が出た。
国会は2026年5月の選挙を2年延期し、6月に署名された米国仲介の枠組み合意は、イスラエル軍の南部からの段階的な再配置を、ヒズボラの検証された武装解除と結びつけている。合意の当事者ではなかったヒズボラはこれを拒否し、その履行については2026年10月の時点でなお交渉が続いていた。
修正主義からの反論と、それが私たちを救わない理由
この議論全体に対する最も真剣な反論は、修正主義の議論である。最も周到に展開しているのはパテル、クック、レヘタ、そしてアリ・ムラト・クルシュンだ。それは答えるに値する。その議論はおおよそ次のようなものである。
第一に、現代中東の具体的な国境はサイクスとピコが引いたものとさほど一致しておらず、それらの国境をこの協定に帰するのは歴史的に不正確である。第二に、中東の紛争は主として権威主義的な統治と正統性の危機の産物であって、国境そのものの産物ではなく、地図による説明は政治的責任を支配者から地図へと転嫁してしまう。第三に、現代の紛争を1916年の協定に帰するのは決定論的であり、1世紀にわたる地域の主体性を消し去ってしまう。アラブ諸国も、クルド人の運動も、イラクの政治主体も選択肢を持っていたのであり、その選択は重要だった。
三つの論点はいずれも説得力を持つが、その重みは等しくない。第一の点については、本稿ですでに認めている。サイクス・ピコの具体的な線は、後のものに取って代わられた。
ここでの議論は、それらの線が具現した原則についてのものである。すなわち、この地域は外部の大国によって分割され、現地の同意は求められるとしても形式のためだけであり、その後のどの条約もその原則の枠組みの中で機能した、という原則である。
第二の点は、部分的に成り立つ。権威主義的な統治が、この地域の最も深刻な苦しみの直接の原因であることは明白だ。クルド人に毒ガスを浴びせるというサダム・フセインの決定、自国の都市を爆撃するというアサド家の決定、押収された硝酸アンモニウムをベイルートの住宅地のすぐそばの倉庫から6年間撤去できなかったレバノン政界の失敗。これらは選択であり、具体的な責任を負う具体的な人々によってなされた選択である。構造的な議論は、そうした主体性の余地を残している。それが主張するのは、同意に基づく基盤なしに組み立てられた国家構造は、圧力の下で権威主義的な解決へと傾きやすい、ということである。強制が、そうした国家をつなぎ止める唯一の手段になるからだ。イラクにおけるスンニ派少数派の統治は、民主的な手段ではつなぎ止められない国家に対する予測可能な反応であった。そして総じて言えば、この地域の権威主義はそうした構造的条件から育ってきたのである。
第三の点は部分的にしか成り立たず、これには最も強く抵抗する必要がある。クルド人の事例は、そうした構造に対して地域の主体性に何ができ、何ができないかを示している。クルド人の政治主体は1世紀にわたって主体性を持ってきた。その1世紀が生み出したのは、トルコでのシェイフ・サイトの反乱(1925年)、イランでのシムコ・シカクの反乱(1918〜22年、1926年に一時再燃)、トルコでのデルスィム虐殺(1937〜38年)、イランでのマハーバード共和国(1946年)、トルコでの40年にわたるPKKの武装闘争、アンファルのジェノサイド、2005年のイラク憲法のクルド人自治規定、そして投票者の92%が支持しながら数週間のうちに無効とされた2017年の独立住民投票である。構造は、それに対して行使された主体性よりも耐久力があることを証明してきた。クルド人を封じ込めるように作られていたからである。
修正主義の批判が明らかにするのは、ここでの議論が特定の協定についてではなく、ある類型の行為についてのものでなければならない、ということである。植民地的な地図の押しつけ、つまり統治可能性や同意に対する責任を負うことなく、行政上の便宜のために外部の大国が引いた国境は、構造的な条件を生み出し、そこからは具体的で予測可能な失敗の様式が確実に現れてくる。サイクス・ピコは、その類型の一つの事例の名前であり、中東はその最も読み解きやすい例である。ただし、唯一の例ではない。
中東だけではない:パターン
中東以外でこのメカニズムを最も明瞭に示す例の一つが、カシミールである。もっとも、紛争そのものの引き金を引いたのは1947年の分離独立であった。分離独立が引き裂いたその単位は、それより1世紀前に組み立てられたものだった。
1846年3月、英国東インド会社は、ジャンムーのドーグラー系ヒンドゥー教徒の支配者グラーブ・シングとアムリトサル条約を結んだ。この条約の下で英国は、住民の多数がムスリムであるカシミール盆地とその周辺地域を、新たな臣民の大半とは宗教を異にするヒンドゥー教徒の支配者に売却した。代価は750万ナーナクシャーヒー・ルピーであった。この売却によって、主にムスリムが住むカシミール盆地が、グラーブ・シングの宗教的に混在したジャンムーの領地と結びつけられた。条約の外でドーグラー朝の支配下に入った仏教徒のラダックとムスリムのギルギットを加えて生まれたのは、行政上の便宜と境界の明確さのために設計された複合的な単位であり、被治者の同意や、被治者の政治的アイデンティティのまとまりのために設計されたものではなかった。
ここでのメカニズムは、形式の点でイラクやレバノンとは少し異なる。直接の委任統治ではなく、現地の支配者への植民地的な売却だったからである。しかし構造的な結果は、性格において同一であった。宗教的アイデンティティを異にする住民をまたいで、財政上・行政上の理由から境界が引かれ、同意の仕組みも、生まれた単位が正統な統治を維持できるかどうかへの配慮もなかった。1947年に英国が去り、インドの分離独立が交渉されたとき、ムスリムが多数を占める藩王国のヒンドゥー教徒のマハラジャは、当初ためらい、パキスタンの非正規部隊が領内に侵入した後になって、インドへの帰属を選んだ。その結果生じた曖昧さは、インドとパキスタンの間のカシミールをめぐる三度の戦争(1947年、1965年、1999年)と、1971年の東パキスタンをめぐる四度目の戦争、そして1972年に定められ、かつての藩王国を二分する実効支配線を生み出してきた。2026年のいま、この紛争は、つい2025年5月に攻撃を応酬し合った二つの核保有国の間に横たわっている。
このパターンのもう一つの主要な事例は、たどるのがより難しいが、規模はより大きい。1884〜1885年のベルリン会議は、アフリカ人の代表を一人も交えずに、ヨーロッパによるアフリカ分割のルールを定めた。線そのものは、主にその後の数十年間の二国間条約で引かれた。その過程で200を超える民族集団が国家間で分断され、王国や交易網が分割され、歴史的な敵対者同士が単一の行政単位に押し込められた。ベルリンで承認され、後にベルギー領コンゴとなったレオポルド2世のコンゴ自由国は、その多様性を単一の植民地の枠組みに閉じ込めた。1960年の独立には、ほとんど間を置かずにカタンガ分離危機が続いた。1998〜2003年の第二次コンゴ戦争は、アフリカ各地の国家を巻き込み、植民地分割にまでたどれる民族的・政治的な断層線を映し出した。この戦争はまた人道的な崩壊を引き起こし、国際救済委員会(IRC)は、それが1998年から2007年までに540万人の超過死亡をもたらしたと推計している。ただし、その調査手法を批判する人々ははるかに低い数字を挙げている。IRCの数字に従えば、この戦争は第二次世界大戦以後、地球上で最も多くの死者を出した紛争である。数字をめぐる論争は、広大な無統治の領域で死者を数えることがいかに難しいかを映し出している。そこでは人々が、暴力そのものによってだけでなく、暴力が引き起こした病気や避難によっても死んでいくのである。
これらの事例と中東との比較は、あらゆる点で成り立つわけではない。すべての植民地後の国境が持続的な暴力紛争を生んだわけではない。暴力が訪れた場合でも、国境がすべてを説明することはまれだった。ルワンダとブルンジは、植民地時代の境界がフツとツチの住民を、ベルギーの政策が意図的に対立を悪化させるような形で囲い込んでいたが、両国が大規模な暴力へと崩れ落ちたのは、国境だけでは前もって決まっていなかった独立後の政治的選択を通じてであった。シンガポールは1965年に民族間の緊張の中でマレーシアから分離し、世界で最も安定し繁栄した国家の一つとなった。植民地的な地図作りの行為は、失敗を保証しない。それは、同意に基づく統治の選択肢のいくつかを閉ざし、国家をその内側に築かれる政治制度の質と誠実さに依存させる、重大な構造的リスク要因なのである。
外部の大国が、同意もなく、統治できるかどうかへの責任も負わずに、行政上の便宜のために国家を組み立てるとき、排除された者は抑圧され、国家は強制によって支配し、原因が残っているがゆえに紛争は再発する。中東がこのパターンを読み解けるものにしているのは、記録が異例なほど完全だからである。名前があり、日付があり、地図があり、特定の約束に対する特定の裏切りがある。カシミールの記録には、日付と取引と売却価格がある。コンゴの記録は、アフリカ人が一人も発言権を持たなかった会議から始まる。
アフリカ諸国の選択
1964年にカイロで開かれた第1回アフリカ国家元首・政府首脳会議で、アフリカ統一機構(OAU)は決議AHG/Res. 16(I)を採択し、ウティ・ポシデティス・ユリスの原則、すなわち独立後の主権の基礎として、継承された植民地時代の境界を尊重する義務を支持した。この決議は、恣意的だと知りながら国境を維持するという、アフリカ諸国の意図的な選択であった。民族の線に沿って国境を引き直すほうが危険だと判断されたからである。
1991年以降のユーゴスラビアにおける、民族的な動機による国境変更の経験は、複数の戦争とおよそ14万人の死をもたらし、もう一方の道がどれほど高くつきうるかを示している。OAUの決議は、国境は問題の一部にすぎず、その内側で多様性を管理できる政治制度の欠如がもう一つの部分である、という判断を反映している。
なぜ終わらないのか
2014年6月、ISISはブルドーザーで土塁を突き崩し、それを国境の終わりと呼んだ。3年もしないうちにその突破口はふさがれ、戦闘員たちはイラク側から駆逐された。2025年1月までに、イラクは国境沿いに400キロメートルのコンクリート壁を築いていた。
植民地的な地図の押しつけは紛争を生む。そしてそれは、構造的な罠も生む。その罠の中では、手にしうるあらゆる救済策もまた害をもたらし、最初の押しつけが生み出したインセンティブが確実にその押しつけを維持する方向に働く。ISISのカリフ国家は、イラク西部とシリア東部のスンニ派住民に対してなされたことを正しく名指しした。彼らは、自らの同意なしに組み立てられた国家の中で、構造的に権力から排除されてきたのである。そこでISISはスンニ派の国家を樹立することでこれを正そうとしたが、そのためには、すでにそこに暮らしていたクルド人、シーア派、ヤズィーディー、キリスト教徒の領域を奪う必要があった。最初の地図上の罪は、あらゆるもっともらしい是正がそのまま収奪となる状況を生み出していたのである。国境について正当な不満を抱くどの集団も、いかなる修正であれ誰か別の者から奪うことになる領域に、同時に住んでいた。
これこそが、植民地的な地図の押しつけがかくも持続する主な理由である。それは、新たな不正義を犯さずにはその不正義を正せない構造を生み出す。最初の国境によって追い立てられ、分断された共同体は、1世紀をかけて、その国境の条件の内側で生活を、国家を、アイデンティティを築いてきたからである。
レバノンは、それが最も形式的に埋め込まれた形をとるとどう見えるかを示している。宗派制度は民主的な手段では改革できない。それを廃止しようとする政治家は、まずその制度の下で権力を勝ち取らねばならず、その制度の下で権力を勝ち取るには、制度を擁護しなければならないからである。制度を解体するのに必要な連合は、自らの権力をその制度に依存している者たちによってしか組み立てられない。
国際法の枠組みも、別の推論を経て同じ結論に収斂してきた。領土保全に関する国連憲章の規定と、OAUのウティ・ポシデティス決議が存在するのは、正当な不満に応じて国境の変更を認めることが、不正な国境を維持するのと少なくとも同じだけの暴力を生むからである。ユーゴスラビア解体後のバルカン半島の国境の引き直しは、およそ14万人の命を代償として成し遂げられ、2026年のいまも相互関係が未解決のままの国家群を生み出した。
これらの国境の内側で安定に似たものを達成した国家は、最初の構造的問題を解決することによってではなく、それを管理できる統治制度を築くことによってそうしてきた。権力分有の取り決め、連邦制の構造、少数派の権利の枠組み、共同体の垣根を越えた協力への経済的インセンティブ。1916年の外交官たちは、そのような課題を一度も自らに課さなかった。彼らは、自分たちが設計した構造を機能させられるかどうかについて、何の責任も負っていなかったのだから。
終章
1932年のレバノンの国勢調査に戻ろう。それはいまもこの国の最後の公式な人口調査であり、フランス委任統治当局の下で作成された文書であって、どのような妥当な人口推計に照らしてももはやキリスト教徒の多数派が存在しない国で、キリスト教徒のわずかな多数派を示している。
独立以来のレバノンのすべての政府が、このことを知っていた。そして新たな国勢調査を命じた政府は一つもない。その文書は秘密ではなく、それが時代遅れであることも隠されてはいない。どの勢力もそれをそのままにしている。更新すれば、その上に築かれた制度を解体する必要が生じ、その制度の内側にいる誰一人として、その解体に利害を持たないからである。
国勢調査には、国境の土塁に向かうブルドーザーや、世界に向けて英語で語られるプロパガンダ動画のような劇的なところは何もない。1932年の国勢調査が存続しているのは、それを軸に設計された政治体制が、それをその場に留めておくのに必要なあらゆるインセンティブを生み出してきたからである。そのインセンティブは、何か外部のものがその循環を断ち切るまで持ちこたえるだろう。そしてそれには長い時間がかかるかもしれない。循環を断ち切る可能性が最も高い外部の力もまた、それ自身の利害に基づいて動くことになるからである。
動画と国勢調査は、同じ罠の二つの顔である。カリフ国家はある罪を名指しし、それに別の罪で応じた。国勢調査は何も名指ししない。それが効力を保ち続けているのは、その上に築かれた制度を動かす人々にとって、あらゆる代替策のほうが悪く見えるからであり、その誰一人として、この調査がもはや描いていない住民に対して責任を負っていないからである。
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参考図書
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- A Line in the Sand: The Anglo-French Struggle for the Middle East, 1914-1948 — James Barr (2011). サイクス・ピコ協定そのものと、その後の英仏の対立を描いた最良の歴史ノンフィクション。
- 平和を破滅させた和平:中東問題の始まり「1914-1922」 上 — David Fromkin (2004). 1914年から1922年にかけて連合国がオスマン帝国の領土をどう分割したかを描く古典。
- オスマン帝国の崩壊:中東における第一次世界大戦 — Eugene Rogan (2025). オスマン帝国とアラブの側から見た戦争。戦後の国境の背後にある約束と裏切りを解説する。
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47:26Sykes-Picot: Lines in the Sand (Ep 1) | Al Jazeera Worldアラブの視点からこの協定とその長い余波を描くAl Jazeeraのドキュメンタリー。この記事の引用
Ulfur Atli. “サイクス・ピコ協定――1916年に計画された分割が、いまなお今日の戦争を形づくる.” Eikleaf, 2026年4月27日, 更新 2026年10月25日. https://www.eikleaf.com/ja/sykes-picot-agreement-how-a-border-drawn-in-1916-is-still-causing-wars-today/
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メディア
主な出典と参考文献
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